京都のしかさんの日記

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京都のバカ陰キャ大学生がつらつら書いてる日記

キラキラした人間になりたかった話

 "成長"という言葉が嫌いだ。まるで素晴らしきかのように聞こえるから。まるでそれを損ねた人間が、劣等である、かのように聞こえるから。むしろ"哀愁"という言葉が似合うような現象に、せめて自分の精神を慰めるために、キラキラした言葉を当てはめる。まあ、それもエモいね。人間って綺麗だ。

 成長することが正しいのかな。僕は、全てただの変化に過ぎないと考えている。成長の過程は美しいけど、成長という結果は美しくない。そこを履き違えたくはない。

 あんなに感動する青春モノ。キラキラと輝いている日々。どうしてそんなにも美しく見えるんだろうか。きっと我々は、社会や運命や生活の中で、辛いことも厳しいことも舐めさせられて、それでも精一杯生きていくために、自分自身を否応なしに変化させなければならない生命だからだろう。きっとその結果として失ってしまったものを、二度と手に入らない感情を、もう見ることができない景色を、純真で綺麗だったあの頃の自分を、全てが愛おしいから、求めてやまない。そんな心情があるからなんじゃないだろうか。人間という種の業と言うべきか、愚鈍であれば感じなかったことまで、ふとした時に気がついてしまう。それはそれで綺麗だけど。

 中学高校の陸上選手権、見たことない人は見てみるといいよ。ぶっちゃけ面白いものではないけど。ただ走っているだけ、飛んでいるだけ、投げているだけ。でも感動する。僕は二十歳になってようやくそこに気がついた。彼らは今に全力だ、応援してくれる親の愛を吸い込んで、大きく伸びる木だ、たった人生で1回きりの学校生活で、一瞬の結果のために全てを掛けている。勝って喜ぶ顔も、タオルを貰って裏にはけて行く負けた背中も、子供のために、一切を求めずにただ愛を注ぐ親も、全てが美しい。

 

 成長って悲しい。銀将は一度成ってしまうと斜め後ろには進めない。人間の精神の成長って、きっと計算処理のパラメータを変化させるようなものであって、セーブ・ロードして後方互換するものではなさそうだ。1つを得れば1つを失って、成長はそれだ。だから僕は変化って呼ぶ。だから美しい。

 その変化のうねりの中で、それでも常にキラキラした心を持った人間って、少ない。社会の歯車に成る中で、夢を諦めていく中で、自分を殺して生きる中で、必ずなにかを諦めてしまう。諦めることの楽さを知っていく。1つを知れば、1つを失う。諦めることを知れば、諦めることを重ねれば、忘れる。大切な感情も、綺麗だったはずの心も、青春のキラキラだって、いずれ変化してしまう。何も間違えてはいないけど、正しいとは言いたくない。避けられない運命でも、悲しい結末って美しいけれど、大人になるってそういうことなんだろうけど、それを押し付けるのは嫌じゃん。諦めろって言われ続けて諦める人間より、足掻いて藻掻いてそれでもどうしようもない方が、美しいじゃん。

 枯れた人間ってちょっとカッコヨク聞こえるから、萎びた人間って名付けようか。気力もなくて、ただ言われたからやるだけで、そんな人間。でもそんな人間が多いから、自分が失ってきたから、下の世代にもそれを押し付けるのかな。さっさと大人になれ、いい加減成長しろ、子供じゃねえんだぞ、そんな言葉って美しくないや。

 記憶と精神の乖離って言うかな、記憶は、美化されてることも多々あるけど、それでも事象自体はエピソード記憶として残っているのに、そのデータをいざパラメータの変化した処理装置に入れてみると、記憶とは全く異なった感情が出力される。これはなかなか意地の悪いシステムに出来上がっているよね。最近は、学生モノを綺麗で美しく感じはするんだけど、感情移入ができなくなった。そして青春モノには、ノスタルジーを掻き立て記憶の中の日々を憧憬させるものと、感情移入させ登場人物の感情で読者の感情を揺り動かすものの2つがあるのだということも知ってしまった。

 そういえば先日、青春ってわけではないが、小学校の学芸会の夢を見た。1年から6年までの出し物を、ステージが何個も何個も連なっていて、横切りながら鑑賞できる夢だった。そこで僕はその一つひとつを手にとり、あの頃の感情を想起していた。今思いだそうとしても、ぶっちゃけ小学校の学芸会なんて何やったか覚えてないし、明らかにおぼろげな記憶のはずなのに、夢ではかなり現実感を持っていたし、記憶にないはずの部分まで手にとることができた。記憶の日々か。人間の記憶ってどういう形態で保存されているんだろう。多分ジェイペグじゃないよな。年々荒くなっていく雑で適当な文章状なのかも。桃太郎の劇をした。なんかのクラシックの名曲をリコーダーとハーモニカで演奏した。それでもその文章からその時の価値観で生成される。t2iのAIみたいだ。案外人間の感情ってその程度のものなのかもね。

 他の人達にとってどうなのかはわからないけど、僕にとって、人間の生活は、営みの跡は、すごく美しくて、綺麗なものだ。路地裏に掛けられている洗濯物。すりガラスの窓越しに見える洗剤。投げられて半分腐ったような水槽。そこには他の動物には無い哀しさがある。本来は生まれて、生きて、死ぬだけの生命が、意識を持ち、言葉を得て、知識を残し、自分の意義を探してしまうようになった。それでも人は生命であることからは逃れられなくて、データを残し変容しながら永遠と有る機械と、なにも残さずにただ地球というカラクリの歯車として朽ちて消える生命の間で、自分の意味を探し続けなければならない。でも感情と意識を持たない人なんて居ないから、それって全人類が直面している問題で、一人ひとりがそんな世界で一番むずかしい問題と向き合いながら生活しているって考えたらすごく、感動するよね。だから知らない町や知らない土地を歩いたり、知らない鈍行に乗ったりするのは楽しい。過去の人達の歩みとか、今の人達の営みとか、そういうのに触れられるから。

 

 

 ところで僕、いつの歳になってもず~っと好きなことでキャッキャ騒いで、キラキラしてる人間をよく見るんですけど、オタクって呼ばれてる人たち。すごく美しいし綺麗だよね。好きな話になると大声かつ早口になって、すっごく楽しそうで、憧れる。僕にとってのキラキラ人間って、ああいう人たちなのかなぁ。最近はオタクになりたい人間が多いらしいけど、オタクってなりたくてなるものじゃなさそう。そもそも、きっとオタクになりたいって言ってる人たちが、本当になりたいものって実はキラキラした人間なんだろうね。だからまずは自分が好きなものにキラキラできる人間にならないと。

 タイトルの通り、キラキラした人間になりたいよね。好きなものに全力で、その気持ちに他人の目は介在しない。自己中って意味ではなく、ただストイックと言えるかも。そんな人達は確かに今を生きている。生きる意味なんか求めなくても、自分が好きと思えるものと、自分の好きと思う感情だけで、まるで青春のように輝ける。最近はそんなキラキラ人間が周りに多くて、圧倒される気持ちだ。本当にそんな人達を心から美しいと思っているし、リスペクトでいっぱいだ。まずは怠惰な自分を叩いて、好きなことを探して行きたい。

 オタクであることを卑下してるタイプのオタクって結構いるけど、本当に自信を持って欲しいし、その美しさを忘れないでいて欲しい。ただの合言葉だけど、時よ止まれ、ってね。

 

 

 

 

 

 それはそれとして、生命の成長(物理)って美しくないか?元をたどれば1mmにも満たない1つの細胞だったはずの命が、珍奇な姿かたちをして、色々な音を奏でて、全体としてそこにある。長い年月とともに少しずつ、時には急激に変化してきた。そんな人生の重さを、種の歩みを感じ取ると、何もかもがどうでもよくなるような、森を歩けばそんな気分になってしまう。神秘の力だね。僕はそんな成長の過程が好き。

 これをオタクに話したらロリコン認定されたんだけど、それは全くの筋違いです。少年少女は精神的にも肉体的にも幼くあること、そして幼いのにも関わらずそれこそが1人の人間として完成されていること、この神秘性が美しいのです。そこを理解していない雑なロリキャラ像は何をやらせてもダメ。特に、えっちなロリ巨乳とかいう性欲を押し付けられて歪められた少女像、あのピエロは本当にダメです。(宗派)