京都のしかさんの日記

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京都のバカ陰キャ大学生がつらつら書いてる日記

断捨離

 最近本当に金銭事情が苦しくて、本当に悩んだけれど、集めてきたCDとか売る活動をすることにした。思い入れのあるもの、手放したくないもの、売ると体裁が悪いものだけ取り除いて、売っても良いものと仕分けする作業をした。M3でおつかいに行ってもらったし、それを受け取る前に整理しようかなという魂胆もあった。

 これは本当にお笑い草なのだが、黙々と仕分け作業をしていると、少しずつ気分が悪くなっていった。別にものを捨てることが嫌だったわけでは無いし、少しでも手放したくないものは売らない側に除けていたし、「忘れるどころかそもそも気づいてすら居なかった大事なもの」を見つけてはその味わいを噛みしめるというか、引き出しの奥に眠っていたビー玉を見つけて、そっと元あった場所に戻すような作業をしていただけなのだ。思い出のぬいぐるみとお別れをしていたわけではない。(ちなみに思い出のぬいぐるみは実家から持ってきて枕元に置いているらしい。)過ぎ去った時間とか、あの頃の気持ちとか、色々失ったものと、色々手に入れられなかったものと、取り返しはつかないけれど、少なくとも自分だけは知っている自分の人生とか、過去に浸る陳腐な感傷はかなり好みではあるけれど、それとは別種のものだったように思う。

 人生って結局は今の連続であって、過去がどうとか未来がどうとか、あんまり考えなくても勝手に時間は進んでいく。それが積み重なって過去になるし、それはこれからも雪崩のように押し寄せてくる。きっとこれからの人生も、日々を自分以外に振り回されて終わっていくだろうし、だから今から色々悩むよりは、その時に自分が一番幸福を実現できるように生きていく方が良いのだ。気が付かないだけでいくらでも人は変わっていくし、自己の外界は更に難しい。理解とか予想とか、楽しいけれど、あまり意味の無いように思う。幸せって、あくまで自分が責任を持って得ていくものであって、客観的に判断するのはエゴでしかないし、その時の生き方と自分の見つめ方で決まると思っている。

 生きるというのは存外難しいものであって、マンモスを狩るようである。労働という名前だと語弊があるが、つまりは生きるのにかかるコストというものは、生きる事によって得られる利益を全てペイしなければいけないほど、あまりにも大きいのだと思う。生きていると良いことがあるよ!いい音楽に出会える。いい物語と触れられる。かけがえのない人たちとかけがえのない時間を過ごせる。例えようの無いほど、大事なものがみつかる。でも、それって目標に成り下がっている。生きることで得られる利益を、生きるための目的に消費してしまっている。それによって得られる利益は、生きることをやめた途端消えてしまう。消えてしまうから消えないように生きる。なんだか微妙に課金してズブズブと泥沼から抜け出せなくなったソシャゲみたいじゃないか?やめたほうがいいかもね。

 意味もなく、目的もなく、生きるために生きる。生きているから生きる。共依存した社会性の中で、集団としての人間、大きな怪物を維持するために生きるためのコストを支払い続ける。水のひと粒が大きな波となるような、物理の法則に従って一定の反応を返すだけの事象と似ている。似ているどころか同じだ。意識というものも、それと変わらない。自分という個は、大きな何かを維持する1つでもあるが、何かによって維持された蒙昧な集団の1つでもある。生きることに特別な意味を見出すから、余計に話が難しくなる。今の連続でしかないというのはそういうことで、プラトニックに考えたほうが良い。話がズレた。断捨離の話に戻ろう。

 生きることによって得られた利益。生きることによって消費するそれは、考えてみればプラマイ0というか、ただ順繰り回っているだけのものではあるけれど、少なくとも生きることにおいて欠けてはいけないものでもある。(生きるという本能的な反応自体、ベタベタな汚れがシンクにこびりつくように、ただ生きようとする方向に反応したものだけが後世に残ってしまっただけ、とも言えるけれど。)単純に考えて、もし私が生きるのであれば、それをなにかに見出さなければならない。

 これは簡単であって、家庭を持つという、古来から長らく存在してきた第一選択肢がある。(オタクの皆って良いものがあったら人に勧めたくなるじゃん。よく結婚しろ~だの、結婚した方がいいぞ~だの、結婚は良いぞ~だの言う人居るけど、そりゃ人生のコストを60年以上も支払えるほどのデカい利益があったら人に勧めたくなるよね。)ところで、その家庭を持つことがかなりのコストを要求するから、活性化エネルギーが本当に大きい。一度その閾値を越えれば最高になるのかもしれないけれど、それは図を紙の上、1つ上の次元から見下ろすから簡単に見えるのであって、そこに降り立てばありえん壁があるわけだ。じゃあそれ以外の方法で、どうやってそのコストを支払い続けるかというのが問題になってくる。

 そこで娯楽が入ってくる。それも、暇を潰すための娯楽ではなく、自分の人生に意味を与える娯楽。大衆的に言えばそうなるが、正確に言えばこれは逆である。課せられたタスク以外の事物、自分から能動的に取り組める事柄。多くの場合は娯楽(もちろん仕事でも、研究でも、家庭でも、何でも)から我々は人生の意味を見出さなければならない。例えば、ゲームって暇を潰すための娯楽になりがちだけれど、そこに人生の意味を見出している人だっている。金銭を生んでいるかどうか、誰かに影響を与えているかどうかではなく、たった1人の世界だとしても、そこに意味を見出すのが大事なのだ。未来にてそれに意味を見いだせなくなったのなら、別の何かに人生の意味を見出す。流動的に変化する自分に合わせて、流動的に移り変わりながら生きるコストを支払っていく。

 断捨離をしてなぜ体調が悪くなったのか、その理由がこれである。端的に言えば、今が過去になった感覚があった。確かに大事なものが沢山あって、忘れかけていたけれど絶対に捨てられないようなビー玉ばかりだったし、それをもう一度見つけるたびに幸せな気持ちになったのは事実だ。でも、それは過去だった。それに意味があったのは、あくまでノスタルジーという意味合いでしかなかった。今に意味を見出すものではなく、過去に意味を見出したものでしかなかったのだ。虚無感と言うと単純だが、自分という存在を形作っていたと思い込んでいた大事なものが、ポッカリと、時間に奪い取られてしまった。今までも、過去の自分に、大事なものという存在を奪われてしまって、それの意味をノスタルジックという強い感情で書き換えられてしまった経験は何度かあるけれど、いつまで経っても慣れないものだなぁと。もちろんそれだけが生きる意味じゃないし、ありがたいことにそれ以外にも沢山の大切な人やモノに囲まれて僕は生きさせて頂いているけれど、まあ、しんどいね。

 過去も、未来も、後悔も、不安も、結局僕の人生は僕の責任なんだなあ。死ぬまで自分が抱え続けなきゃいけないし、その抱え込んだものって、自分にしか見えないしわからないんだよね。って断捨離中に見つけたメモ帳に書いてた。たしかになぁ。

 

 

 ところでおつかい頼んだやつまだ受け取ってないから、今回のM3新譜まだ聞けてないや。楽しみ~~~(今生きる意味を見出したオタク)